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「小藩分立」「一村一品」の精神が 大分のまちおこしと中小企業の活力だ!! 印刷
2011年 12月 09日(金曜日) 00:00

2011120101

宇佐神宮では拝礼の作法も独特。通常の「二拝、二拍手、一礼」ではなく、出雲大社と同じ「二拝礼、四拍手、一礼」という作法なのだ

九州地方の東部に位置する大分県。温泉の源泉数、湧出量ともに日本一で、シイタケやカボスの産地としても有名だ。また、最近では関アジ・関サバの産地として食通を唸らせている。だが、大分の本当の魅力はそれだけではない。山里や温泉地にニッチなさん業も生まれつつあるのだ。そして一帯は全国八幡様の総本宮が鎮座する超パワースポット、はたしてどんなミラクルが。さっそく、大分の魅力を紹介していきたい。

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醸造場と試飲場の風景。安心院の地ワインを味わいたい

 

◆大分の歴史
『古事記』によると、九州は6世紀前後には筑紫国・豊国・肥国・熊襲国に4分割されていたという。やがて豊国は、豊前と豊後に分かれる。江戸時代に一番大きい石高を誇ったのは10万石の中津藩で、そのほかに杵築藩、日出藩、府内藩、臼杵藩、佐伯藩、岡藩、森藩の8藩、加えて熊本・島原・延岡藩の飛び地が入り乱れる「小藩分立」の様相を呈していた。また、大友宗麟の治世に西洋文化を取り入れた府内藩は国際都市として賑わうように。そして現在、大分県は豊前2郡(下毛、宇佐)と豊後8郡(国東、速見、大分、海部、大野、直入、玖珠、日田)で成り立っている。
〈八幡様の総本宮として知られる宇佐神宮〉
大分の歴史を語る上でハズせないのが宇佐神宮だ。全国4万社余りあるといわれる八幡様の総本宮であり、八幡大神(応神天皇)、比売大神、神功皇后を祭神として、725年に創建された。
神道だけでなく仏教文化も大切にする「神仏習合」の祖としても知られている。そのため、かつては敷地内には弥勒寺と呼ばれる寺院が存在していたという。弥勒寺は明治維新の廃仏毀釈(ルビ・きしゃく)で破壊されてしまったが、堂内にあった仏像などは周辺の寺院などで引き取られたそうだ。また、宇佐神宮は御輿文化の祖ともいわれている。かつて奈良東大寺の大仏の建立にあたって、御輿を造って八幡様を乗せて出向いたのが、その由来となっているそうだ。
なお、取材当日は江戸末期に建設された社の檜皮(ルビ・ひわだ)ぶき屋根の葺き替え作業の真っ只中だったので、その様子も少し拝見させてもらった。檜皮とは読んで字の如く檜の皮のことで、これを1.2㌢の間隔を空けながら何層も重ねていく。もちろん、檜皮を固定する際に使用するのは竹釘のみで、昔ながらの宮大工の工法を守っている。
〈六郷満山文化を代表する富貴寺〉
宇佐神宮によって花開いたとされる「六郷満山文化」。六郷とは国東半島に栄えた武蔵、来縄、国東、田染、安岐、伊美の総称であり、国東半島の寺院を総称して六郷満山と呼ぶそうだ。
富貴寺は平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた六郷満山の代表格。なかでも国宝・大堂は西国唯一の阿弥陀堂であり、九州最古の木造建築物として知られる。また、堂内に納められている本尊の阿弥陀如来像も必見で、一本の榧(ルビ・かや)の木から六郷満山寺院を開基したとされる仁聞菩薩が彫ったという伝承が残されている。
そして、この大堂を訪ねることがあれば、その内壁をよく見てほしい。そこに極楽浄土の世界を描いた壁画が施されていることがわかるはずだ。現在は風化によって白っぽい跡しか見えないが、調査によってこの壁画は極彩色で描かれていたことが判明している。
◆大分の食
さて、おつぎは大分の食を訪ねてみたい。大分県は標高0㍍から1000㍍近くまで耕地が分布し、耕地面積の約7割が中山間地域。起伏の多い地形でコメを主に、野菜、果樹、花き、肉用牛などが生産されている。また、県土の72㌫を占める森林では、木材の生産をはじめ、しいたけなどの特用林産物が生産されている。
一方、海の幸はどうか。大分県の海岸線の総延長は759㌔㍍(全国13位)で、日本三大干潟のひとつである豊前海やリアス式海岸の豊後水道など、実に変化に富んだ地形を有している。そして、その地形ごとに特徴ある漁業や養殖業が営まれている。たとえば、豊前海は干潟と平坦な浅海からなるため、採貝漁業、ノリ養殖業、幼稚魚の育成場とされている。また、豊後灘・別府湾は外洋水と内海水が混合しており、小型底引き網や刺網による漁獲、車エビ、カキなどの養殖が盛ん。豊後水道北部・南部はリアス式海岸と天然の磯に恵まれ、沖合・遠洋ではマグロは縄漁業、沿岸部では中高級魚の一本釣り、魚類や貝類養殖業が営まれている。
〈300年の歴史を持つ老舗の鯛茶漬〉
さっそく、大分ならではの食文化を求めて、300年以上の歴史を誇る杵築市の「若栄屋」を訪問。広々した店内には美しい調度品が配置され落ち着いた高級感が漂う。通された宴会場には能舞台まで設置されていた。
ここでは他県では味わえない独自の鯛茶漬が食べられるという。その名も「鯛茶漬うれしの」、江戸時代から若栄屋に伝わる家伝料理だ。一般的な鯛茶漬とは異なり、一子相伝の胡麻ダレに漬けた鯛をご飯にのせ、杵築茶をかけて食べるという。ゴマと杵築茶、タレの風味が絶妙なハーモニーを生み出す絶品だ。
ところで、この鯛茶漬うれしのの名は「杵築藩の殿様に大谷屋(現在の若栄屋)の鯛茶漬を出したところ、『今日も鯛茶か、うれしいのう』といって召し上がったことに由来し名付けられたそうです」と話すのは若栄屋16代当主の後藤源太郎さん。殿様も満足した秘伝の味はまさに杵築が誇る地域資源といえそうだ。
〈臼杵のフグが大分の新名物になるか〉
フグといえば下関というイメージが強いが、実は臼杵のフグが下関でセリにかけられているとか。しかも、値付けではいつもダントツというからその味もダントツ。というわけで、フグ料理の料亭御宿「春光園」を訪ねてみることに。フグ刺しやフグ鍋、フグの唐揚げ、フグの雑炊などを味わえる「ふぐコース」(1万2000円)はまさに絶品。とくにフグ刺しは一般的なフグ刺しよりも厚めに切られており、フグの食感をより贅沢に楽しむことができる。そのため「この刺身を味わうためだけに、わざわざ県外から訪れるお客さんも多いんですよ」と女将の児玉多壽子さんは話す。
また、フグ料理店や卸業者で組織されている「ふぐの郷臼杵」は毎年10月に「日豊海岸臼杵ふぐ祭り」を開催。昼食にフグ料理を堪能し、臼杵の美しい石壁の街並みを散策したり、臼杵産の真珠のアクセサリーづくりを行うことができるという。参加者全員にプレゼントがあるほか、抽選でフグ料理補助券が当たるそうだ。国宝・臼杵石仏などで知られる臼杵市、歴史探訪と合わせてフグ料理を満喫するのもオツである。
〈「いいちこ」の蔵元が製造する「安心院ワイン」〉
いまや焼酎のトップブランド「いいちこ」、その蔵元である三和酒類(宇佐市)が宇佐市安心院町に安心院葡萄酒工房を設立し、「安心院ワイン」ブランドでワイン造りを展開しているという。
「安心院は標高200㍍で、日照時間が長く昼夜間の気温差が激しい地域なので、良質なワインができます」と話すのは安心院葡萄酒工房の内野隆之さん。一般的なデラウェアやシャルドネ、ソーヴィニヨン・ブランといった品種を使ったワインのほか、安心院の山里にあるイモリの形をした松本地区(通称イモリ谷)産のブドウを使ったワイン造りも展開している。また、園内の醸造場や貯蔵庫、ブドウ畑では、醸造工程や栽培中のブドウの見学ができるので、ワインファンにはたまらないスポットとなりそうだ。もちろん、ワインの試飲もできるので、是非とも安心院ワインのクオリティをたしかめてほしい。
◆大分のまちおこし
08年の統計によると、大分県の県内総生産は4兆4723億円で47都道府県中31位、青森、富山、石川と並ぶ実力でルクセンブルグとほぼ同じGDPだ。総人口(08年)は120万人で33位、過去13年間の人口増加率を見てみると0・2㌫で、全国29位という状況になっている。
人口減少の動きに歯止めをかけることは難しいが、それならばそれぞれの地域が個性を生かし、持続可能な社会を目指すべきだ。ということで、小藩分立だった大分の個性を生かし、地域ごとの特有な地域づくりが展開されている。そこで、大分らしい地域資源を活用した地域おこしの事例を取り上げてみたい。
〈サンドイッチ型城下街の情緒でまちおこし〉
杵築市には杵築城を中心に、南北の高台に武家屋敷が建っている。そして、その谷間に商人の町が挟まれている。このように凸凹になった「サンドイッチ型城下町」は、全国でも杵築だけといわれる。今回ガイドを買ってくれた杵築を愛する会代表の平田泰彦さんは「武家屋敷や街並み、そのひとつひとつに江戸時代の生活の知恵が込められています。それをひとりでも多くの人たちに紹介したい」と。
そんな江戸時代の面影を残した武家屋敷や商人街を歩くと、まるでタイムスリップしたかのような気持ちになる。実際、2010年11月には全国初の「きものが似合う歴史的町並み」に認定されたそうだ。また、杵築市ではこの江戸情緒を生かすために、2011年4月1日に南杵築の中根邸内に『~きものレンタル~ 和楽庵』をオープンし、2000円で着物のレンタルや着付けを行ってくれるサービスもはじめた。平田さんは「これを機にもっと江戸時代の生活を体験できるまちにしたい。たとえば、道路を砂利道にして、杵築に来る観光客に草鞋を履いてもらう。そうすれば、当時の生活をより肌身で感じられるはずです」と。
また、商人街には創業260年以上の老舗「お茶のとまや」など、古くからの商家が軒を連ねているので、町人気分でショッピングを楽しむことができそうだ。そのほか、大正時代の酒蔵を改装した大衆演劇場「きつき衆楽観」などもあるので、午前中は街歩き、午後は観劇といった旅を楽しむことができる。
〈温泉資源をフル活用して地域を元気に〉
大分の温泉地のなかでも屈指の規模を誇る別府市。平成17年現在、県内16市町村に温泉が存在し、総源泉数は5053孔(未利用含む)、これは全国の18㌫にあたるという。なかでも地獄の中心に位置し、別府一の湯量を誇るのが鉄輪(ルビ・かんなわ)温泉街として知られる。お湯の温度が98℃~103℃にも上ることから、おもしろい装置を導入しているという。それが「ひょうたん温泉」の敷地に設置された竹製温泉冷却装置「夢雨竹(ルビ・ゆめたけ)」だ。装置上部の檜の桶にお湯をため、そこから溢れたお湯を竹枝伝いに落として水滴状にする。そうすることでお湯の温度を47℃前後にまで下げることができるという。
また、このあたりは地獄蒸し調理が非常に盛んなことでも知られる。地獄蒸しとは温泉の蒸気を使って、肉や魚、野菜を蒸す調理法のこと。地獄釜を貸してくれる宿や施設に立ち寄れば、好きな食材を調理することができる。「鉄輪温泉街の泉質はミネラル含有量が高くて、少し塩っ気がある。そのため、温泉の蒸気で調理すると、ヘルシーかつ美味しい仕上がりになります」と鉄輪温泉街を案内してくれたホテル風月社長の甲斐賢一さんは話す。
外湯巡りの充実ぶりも魅力的だ。そのひとつ、一遍上人が開祖といわれる共同浴場「鉄輪むし湯」では温泉の蒸気で身体を蒸す「むし湯」を体験できる。室内には石菖という薬草が敷き詰められており、その上にしばらく横たわれば「スッキリとした気分になれること間違いナシ」だとか。また、むし湯と並んでもっとも古い共同浴場である「熱の湯温泉」は入浴料金がタダだというから素晴らしい。そのほかにも鉄輪温泉街には8つの立ち寄り湯があるので、すべてを制覇してみるのもいいだろう。
街中のいたるところで見かける句碑もユニークだ。これは甲斐さんも所属する地元の地域おこしグループ「鉄輪愛酎会」が行う「鉄輪俳句筒・湯けむり散歩」の活動で建てたもの。鉄輪のアチコチに設置した竹の筒のポストで俳句を募集し、年に一度の審査によって、その年の最優秀賞が選ばれ句碑が建てられるそうだ。すでに鉄輪温泉街には約30カ所に句碑が建てられているという。観光客も巻き込んだ地域おこしが大いに人気を集めている。
〈昭和レトロを生かして商店街を活性化〉
豊後高田市の中心市街地は昭和30年代に国東半島でもっとも栄えた地域だったという。しかし、それ以降は徐々に人口流出がすすむようになり、気付けばシャッター通り化が進行していたという。そこで、01年に「豊後高田 昭和の町」というプロジェクトが発足。豊後高田市の8つの商店街と「昭和ロマン蔵」を中心として、昭和の建物やレトログッズ、当時の食べ物などを満喫できるようなまちづくりを行うことに。「昭和の建築、歴史、商品、商人の再生を軸としてまちづくりがすすめられてきました」とガイドの河野峯子さんは話す。建物に関しては昭和30年代以前の建物を外壁だけリフォームしたものが多かったので、外壁を外して元の姿を出すようにしたという。そうしてできあがった商店の店内や店先にはその店、その商店街の歴史を象徴する道具などがディスプレイされている。そして、それぞれの店が昭和30年代をテーマにした商品やサービスを開発し、積極的に販売している。
もちろん、豊後高田の商人魂も復活、という取り組みも。たとえば「肉のかなおか」の前を通ると、お店の方が「ご試食いかが」と自慢のおからコロッケ(1個50円)をすすめてくれた。その美味しさと安さに驚いて納得して店内に入ると、ついついほかのモノにも目移りして思いがけない買い物をしてしまう。これが昭和の商い、対面販売の真髄を体験できる。
09年には昭和32年式のボンネットバスが導入され話題になった。エアコンも扇風機もついていないレトロバスで街中観光に出掛ければ、バスガイドさんの軽快なトークとともに楽しいひと時をすごすことができる。そして、バスの車窓からは商店主や道行く人たちがバスに向かって笑顔で手を振る姿が見えてくる。地域一丸となって商店街を元気にしたい、そんな想いがヒシヒシと伝わってくる光景である。
◆大分の中小企業
帝国データバンクの調査によれば、大分県の飲食業の総売上高は979億円で、その構成比は全国トップの1・83㌫。また、製造業総売上高は1兆5697 億で、構成比は全国11位の16・81㌫となっている。高度成長期に大分臨海工業地帯が形成され、最近でも電子工業などの立地がすすんでいるため、全国平均に比べ第二次産業の占める割合が高いのが特徴だ。ちなみに、近年は隣接する福岡県宮若市や苅田町に自動車関連企業の集積がすすんだため、主に県北部に自動車産業の立地がすすんでいる。他方、大分から独自の製品やサービスを発信する中小企業もグングン伸びてきている。将来、大分を背負って立ちそうな企業のビジネスを紹介したい。
〈ダンボール素材がマネキンやフィギュアに
(株)アキ工作社(大分県国東市)が手がけるのはマネキン、動物のミニチュアフィギュア、ギフト用のパッケージ、アート雑貨など。同社はこれらすべてをダンボールの板材で製作している。レーザー機で切断したダンボールの板材を組み合わせると、マネキンやミニチュアフィギュアができあがるという仕組みだ。形態の設計や加工はすべてコンピューターで処理しているという。
副社長の竹下洋子さんはもともニット製品のデザインを手がけていた。展示会を開催するため、おもしろいマネキンを探したものの目当てのものは見つからない。そこで建築家で夫の松岡勇樹さん(現社長)が建築のノウハウでダンボール製のマネキンを自作。これが人気を呼び、マネキン製作会社として同社を設立することになったという。その後、高いデザイン性とエコな点が評価され、アパレル関係や美容室から引っ張りダコに。視点を変え、動物の造形を自分で組み立てられるようにしたミニチュアフィギュアは、国内外の百貨店やミュージアムショップから注文がきているという。
さらに同社ではダンボール板材を使ったディスプレイ用の人台(洋服などの商品を着せるための人型の台)や人型ロボットを開発。そのユニークな造詣で海外のアーティストからも高い評価を得ているという。ダンボールがアートにヘンシン、今後の展開にも要注目の元気企業だ。
・タクシーやトラックの無線に革命を起こす
モバイルクリエイト(株)(大分県大分市)はタクシー会社向けの車両管理システム「新視令」を開発し、業界に風穴を開けたベンチャー企業だ。このシステムと従来のタクシー無線との違いは「GPSを利用して、リアルタイムにすべてのタクシーが走っている場所や待機場所をひと目でわかるようにしたことだ」と社長の村井雄司さんは話す。配車センターですべての状況を把握できるので、乗客にスピーディーに対応できるだけでなく、ドライバーの労働効率を高めることにもつながるという。すでに県内のタクシー会社の7~8割がこのシステムを導入しており、その勢いは九州の枠も超え、全国に広がっている。
さらに、同社は現在、車載端末と3Gデータ通信が一体となったAVM車載端末(Automatic Vehicle Monitoring System)を販売中。「タクシー無線は2016年5月31日までに現行のアナログ通信方式からデジタル方式へ完全移行することが決定しています。しかも、業務無線は利用できるエリアが狭く、データ通信の容量が小さいという欠点があります。そこで、これを機にNTTドコモFOMA網を利用し、デジタル対応のAVM車載端末を開発したのです」と話す。たしかにFOMA網を活用すれば、新たに無線用の基地局を建てたり、免許を取得する必要もない。まさにこの読みは見事に的中、「低コストで無線のデジタル化をはかることができる」ということで、急速にシェアを拡大しているそうだ。今後もタクシー業界や運送業界のニーズを捉えることで、新たな市場を見出していくに違いない。
・金属探知機が鳴らない竹製椅子を開発
最後に紹介するのはサン創ing(大分県日出町)の三浦陽治さんは竹製車椅子を開発し、時の人となっている。もともと三浦さんは建築事務所を経営していたが、一時は経営破綻寸前に陥り、89年に木工家具の製造や内装工事に事業をシフトさせた。「もともとモノづくりが好きだったし、金融機関の方や周囲の支えがあったから何とか業態転換をはかることができました」と振り返る。
そんな三浦さんが竹製車椅子に取り組むようになったのは02年頃のこと。大分県産業科学技術センターと大分県竹工芸・訓練支援センターが商品化した竹製車椅子の技術移転を受けたのだ。以来、三浦さんは竹製車椅子の改良に没頭、座り心地やブレーキの効き具合などを何度も調整し、着実に販売実績を重ねていった。
この三浦さんの取り組みに目を付けたのがJALだった。「保安検査の際に、車椅子が金属探知機に反応しないようにならないか」と模索していた同社は、三浦さんに「非金属の竹製車椅子をつくれないか」と依頼。さっそく、三浦さんは車軸、軸、軸受け、ブレーキ、ベアリングなどを非金属で製作し、金属探知機が鳴らない竹製椅子を完成させた。「完成までには4年近い歳月を要しましたが、満足のいく仕上がりになりました」とにこやかに笑う。すでに羽田空港や大分空港などで使用されており、今後も複数の空港で利用されることになるという。三浦さんは「これからも大分の地域資源である竹を生かした商品開発をすすめていきたい」と意欲を燃やしている。
このように大分には次代を担う中小企業たちが数多く存在し、それらが連携しながらまちおこしなどにもチャレンジしている。そして、その多くが地域資源や顧客ニーズを巧みに吸い上げ、個性的なビジネスを展開している。それはまさに小藩分立、一村一品運動によって培われた大分の気風なのかもしれない。
〈カコミ〉
大分出身の偉人と豊かさ
大分県が生んだ偉人を探してみる。筆頭に上がるのが福沢諭吉(1835年ー1901年)だ。豊前中津藩の下級武士の子だったが、今は1万円札の顔になっている。「学問のすすめ」「西洋事情」などベストセラーを連発、慶應義塾を開くなど日本の近代化に大きく貢献した。処世の姿勢が同時代人とはかけ離れてユニークだったが、自分が育った豊前を嫌っていたという。
豊前は文化圏的には現在福岡県に属する北九州市(小倉)と親和性がある。中津は現在の大分県と福岡県との県境を流れる山国川の沖積平野に発達した商業都市だ。中津の名産といえば鱧(ルビ・ハモ)だから、諭吉も中津時代にハモを食したのではないか。諭吉は子どもの時分、冬場でも薄い着物一枚で寝たといっている。豊前はたしかに年を通じて気候温暖で、食物が豊富な地域だ。それもこうした元気人間を生んだ要因ではないだろうか。
大分の元気人間といえば、双葉山定次(1912年ー1968年、大相撲の第36代横綱)だ。大分県宇佐郡天津村の生まれ、本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。双葉山は70勝がならなかった日に師と仰ぐ安岡正篤に「未だ木鶏たりえず」と打電したといわれる。この木鶏の話は白鵬の最多連勝記録63連勝のときにも話題になった。
宇佐平野は駅舘川の扇状地にあり江戸時代から有数の米穀の産地だった。この平野に沿った海が豊前海で、古くから漁港を有してきた。双葉山の体力の源は宇佐の豊かな地魚と米だったのではないか。
ちなみに、来年は双葉山誕生100周年にあたり、大分県宇佐市の是永修治市長は双葉山生誕100年記念事業の一環として「超60連勝碑」を建立することを発表した。60連勝以上を記録した力士は双葉山と63連勝の谷風、白鵬の3人。碑は大分県宇佐市にある双葉山の記念館「双葉の里」の敷地内に建立され、12月3日に除幕式を行うという。白鵬が式典に参列する予定で、12月4日には宇佐神宮上宮で土俵入りを実施する。宇佐での土俵入りは昭和13年の双葉山以来73年ぶりとなる。
川路聖謨(1801年ー1868年)は幕末の旗本で豊後日田の生まれ。川路は幕末きっての開明派の名官吏で、阿部正弘に能力を買われ重用された。今でいえば日本を代表する抜群の有能外交官だ。有能なだけでなく、誠実で情愛深く、ユーモアに富んでいたという。和歌にも造詣が深く、全権としてロシアとの外交交渉にあたり、下田で日露和親条約に調印。その後、幕府の禁裏造営や軍制改革に尽力したが、江戸開城にあたり割腹した後にピストルで自殺、「最後の幕臣」とも呼ばれている。
ところで、川路は幼少の頃に鮎を食したのではないだろうか。日田は昔から「鮎やな」などによる鮎漁が盛んな地域だからだ。市の中心部を流れる三隈川をはじめ、花月川、大山川、玖珠川などが合流するため、日田は水郷日田とも呼ばれる。
日田には「うるか」と呼ばれる鮎の内臓を使った塩辛がある。幕末、開国要求で次々と来日する外国人との折衝に東奔西走した川路は、故郷の「うるか」を昼食のオカズにしていたのでないかと想像してみる。

◆大分の歴史

『古事記』によると、九州は6世紀前後には筑紫国・豊国・肥国・熊襲国に4分割されていたという。やがて豊国は、豊前と豊後に分かれる。江戸時代に一番大きい石高を誇ったのは10万石の中津藩で、そのほかに杵築藩、日出藩、府内藩、臼杵藩、佐伯藩、岡藩、森藩の8藩、加えて熊本・島原・延岡藩の飛び地が入り乱れる「小藩分立」の様相を呈していた。また、大友宗麟の治世に西洋文化を取り入れた府内藩は国際都市として賑わうように。そして現在、大分県は豊前2郡(下毛、宇佐)と豊後8郡(国東、速見、大分、海部、大野、直入、玖珠、日田)で成り立っている。


〈八幡様の総本宮として知られる宇佐神宮〉 大分の歴史を語る上でハズせないのが宇佐神宮だ。全国4万社余りあるといわれる八幡様の総本宮であり、八幡大神(応神天皇)、比売大神、神功皇后を祭神として、725年に創建された。 神道だけでなく仏教文化も大切にする「神仏習合」の祖としても知られている。そのため、かつては敷地内には弥勒寺と呼ばれる寺院が存在していたという。弥勒寺は明治維新の廃仏毀釈(ルビ・きしゃく)で破壊されてしまったが、堂内にあった仏像などは周辺の寺院などで引き取られたそうだ。また、宇佐神宮は御輿文化の祖ともいわれている。かつて奈良東大寺の大仏の建立にあたって、御輿を造って八幡様を乗せて出向いたのが、その由来となっているそうだ。 なお、取材当日は江戸末期に建設された社の檜皮(ルビ・ひわだ)ぶき屋根の葺き替え作業の真っ只中だったので、その様子も少し拝見させてもらった。檜皮とは読んで字の如く檜の皮のことで、これを1.2㌢の間隔を空けながら何層も重ねていく。もちろん、檜皮を固定する際に使用するのは竹釘のみで、昔ながらの宮大工の工法を守っている。


〈六郷満山文化を代表する富貴寺〉 宇佐神宮によって花開いたとされる「六郷満山文化」。六郷とは国東半島に栄えた武蔵、来縄、国東、田染、安岐、伊美の総称であり、国東半島の寺院を総称して六郷満山と呼ぶそうだ。 富貴寺は平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた六郷満山の代表格。なかでも国宝・大堂は西国唯一の阿弥陀堂であり、九州最古の木造建築物として知られる。また、堂内に納められている本尊の阿弥陀如来像も必見で、一本の榧(ルビ・かや)の木から六郷満山寺院を開基したとされる仁聞菩薩が彫ったという伝承が残されている。 そして、この大堂を訪ねることがあれば、その内壁をよく見てほしい。そこに極楽浄土の世界を描いた壁画が施されていることがわかるはずだ。現在は風化によって白っぽい跡しか見えないが、調査によってこの壁画は極彩色で描かれていたことが判明している。


◆大分の食

さて、おつぎは大分の食を訪ねてみたい。大分県は標高0㍍から1000㍍近くまで耕地が分布し、耕地面積の約7割が中山間地域。起伏の多い地形でコメを主に、野菜、果樹、花き、肉用牛などが生産されている。また、県土の72㌫を占める森林では、木材の生産をはじめ、しいたけなどの特用林産物が生産されている。 一方、海の幸はどうか。大分県の海岸線の総延長は759㌔㍍(全国13位)で、日本三大干潟のひとつである豊前海やリアス式海岸の豊後水道など、実に変化に富んだ地形を有している。そして、その地形ごとに特徴ある漁業や養殖業が営まれている。たとえば、豊前海は干潟と平坦な浅海からなるため、採貝漁業、ノリ養殖業、幼稚魚の育成場とされている。また、豊後灘・別府湾は外洋水と内海水が混合しており、小型底引き網や刺網による漁獲、車エビ、カキなどの養殖が盛ん。豊後水道北部・南部はリアス式海岸と天然の磯に恵まれ、沖合・遠洋ではマグロは縄漁業、沿岸部では中高級魚の一本釣り、魚類や貝類養殖業が営まれている。


〈300年の歴史を持つ老舗の鯛茶漬〉 さっそく、大分ならではの食文化を求めて、300年以上の歴史を誇る杵築市の「若栄屋」を訪問。広々した店内には美しい調度品が配置され落ち着いた高級感が漂う。通された宴会場には能舞台まで設置されていた。 ここでは他県では味わえない独自の鯛茶漬が食べられるという。その名も「鯛茶漬うれしの」、江戸時代から若栄屋に伝わる家伝料理だ。一般的な鯛茶漬とは異なり、一子相伝の胡麻ダレに漬けた鯛をご飯にのせ、杵築茶をかけて食べるという。ゴマと杵築茶、タレの風味が絶妙なハーモニーを生み出す絶品だ。 ところで、この鯛茶漬うれしのの名は「杵築藩の殿様に大谷屋(現在の若栄屋)の鯛茶漬を出したところ、『今日も鯛茶か、うれしいのう』といって召し上がったことに由来し名付けられたそうです」と話すのは若栄屋16代当主の後藤源太郎さん。殿様も満足した秘伝の味はまさに杵築が誇る地域資源といえそうだ。


〈臼杵のフグが大分の新名物になるか〉 フグといえば下関というイメージが強いが、実は臼杵のフグが下関でセリにかけられているとか。しかも、値付けではいつもダントツというからその味もダントツ。というわけで、フグ料理の料亭御宿「春光園」を訪ねてみることに。フグ刺しやフグ鍋、フグの唐揚げ、フグの雑炊などを味わえる「ふぐコース」(1万2000円)はまさに絶品。とくにフグ刺しは一般的なフグ刺しよりも厚めに切られており、フグの食感をより贅沢に楽しむことができる。そのため「この刺身を味わうためだけに、わざわざ県外から訪れるお客さんも多いんですよ」と女将の児玉多壽子さんは話す。 また、フグ料理店や卸業者で組織されている「ふぐの郷臼杵」は毎年10月に「日豊海岸臼杵ふぐ祭り」を開催。昼食にフグ料理を堪能し、臼杵の美しい石壁の街並みを散策したり、臼杵産の真珠のアクセサリーづくりを行うことができるという。参加者全員にプレゼントがあるほか、抽選でフグ料理補助券が当たるそうだ。国宝・臼杵石仏などで知られる臼杵市、歴史探訪と合わせてフグ料理を満喫するのもオツである。


〈「いいちこ」の蔵元が製造する「安心院ワイン」〉 いまや焼酎のトップブランド「いいちこ」、その蔵元である三和酒類(宇佐市)が宇佐市安心院町に安心院葡萄酒工房を設立し、「安心院ワイン」ブランドでワイン造りを展開しているという。「安心院は標高200㍍で、日照時間が長く昼夜間の気温差が激しい地域なので、良質なワインができます」と話すのは安心院葡萄酒工房の内野隆之さん。一般的なデラウェアやシャルドネ、ソーヴィニヨン・ブランといった品種を使ったワインのほか、安心院の山里にあるイモリの形をした松本地区(通称イモリ谷)産のブドウを使ったワイン造りも展開している。また、園内の醸造場や貯蔵庫、ブドウ畑では、醸造工程や栽培中のブドウの見学ができるので、ワインファンにはたまらないスポットとなりそうだ。もちろん、ワインの試飲もできるので、是非とも安心院ワインのクオリティをたしかめてほしい。


◆大分のまちおこし

08年の統計によると、大分県の県内総生産は4兆4723億円で47都道府県中31位、青森、富山、石川と並ぶ実力でルクセンブルグとほぼ同じGDPだ。総人口(08年)は120万人で33位、過去13年間の人口増加率を見てみると0・2㌫で、全国29位という状況になっている。 人口減少の動きに歯止めをかけることは難しいが、それならばそれぞれの地域が個性を生かし、持続可能な社会を目指すべきだ。ということで、小藩分立だった大分の個性を生かし、地域ごとの特有な地域づくりが展開されている。そこで、大分らしい地域資源を活用した地域おこしの事例を取り上げてみたい。


〈サンドイッチ型城下街の情緒でまちおこし〉

杵築市には杵築城を中心に、南北の高台に武家屋敷が建っている。そして、その谷間に商人の町が挟まれている。このように凸凹になった「サンドイッチ型城下町」は、全国でも杵築だけといわれる。今回ガイドを買ってくれた杵築を愛する会代表の平田泰彦さんは「武家屋敷や街並み、そのひとつひとつに江戸時代の生活の知恵が込められています。それをひとりでも多くの人たちに紹介したい」と。 そんな江戸時代の面影を残した武家屋敷や商人街を歩くと、まるでタイムスリップしたかのような気持ちになる。実際、2010年11月には全国初の「きものが似合う歴史的町並み」に認定されたそうだ。また、杵築市ではこの江戸情緒を生かすために、2011年4月1日に南杵築の中根邸内に『~きものレンタル~ 和楽庵』をオープンし、2000円で着物のレンタルや着付けを行ってくれるサービスもはじめた。平田さんは「これを機にもっと江戸時代の生活を体験できるまちにしたい。たとえば、道路を砂利道にして、杵築に来る観光客に草鞋を履いてもらう。そうすれば、当時の生活をより肌身で感じられるはずです」と。 また、商人街には創業260年以上の老舗「お茶のとまや」など、古くからの商家が軒を連ねているので、町人気分でショッピングを楽しむことができそうだ。そのほか、大正時代の酒蔵を改装した大衆演劇場「きつき衆楽観」などもあるので、午前中は街歩き、午後は観劇といった旅を楽しむことができる。


〈温泉資源をフル活用して地域を元気に〉

大分の温泉地のなかでも屈指の規模を誇る別府市。平成17年現在、県内16市町村に温泉が存在し、総源泉数は5053孔(未利用含む)、これは全国の18㌫にあたるという。なかでも地獄の中心に位置し、別府一の湯量を誇るのが鉄輪(ルビ・かんなわ)温泉街として知られる。お湯の温度が98℃~103℃にも上ることから、おもしろい装置を導入しているという。それが「ひょうたん温泉」の敷地に設置された竹製温泉冷却装置「夢雨竹(ルビ・ゆめたけ)」だ。装置上部の檜の桶にお湯をため、そこから溢れたお湯を竹枝伝いに落として水滴状にする。そうすることでお湯の温度を47℃前後にまで下げることができるという。 また、このあたりは地獄蒸し調理が非常に盛んなことでも知られる。地獄蒸しとは温泉の蒸気を使って、肉や魚、野菜を蒸す調理法のこと。地獄釜を貸してくれる宿や施設に立ち寄れば、好きな食材を調理することができる。「鉄輪温泉街の泉質はミネラル含有量が高くて、少し塩っ気がある。そのため、温泉の蒸気で調理すると、ヘルシーかつ美味しい仕上がりになります」と鉄輪温泉街を案内してくれたホテル風月社長の甲斐賢一さんは話す。 外湯巡りの充実ぶりも魅力的だ。そのひとつ、一遍上人が開祖といわれる共同浴場「鉄輪むし湯」では温泉の蒸気で身体を蒸す「むし湯」を体験できる。室内には石菖という薬草が敷き詰められており、その上にしばらく横たわれば「スッキリとした気分になれること間違いナシ」だとか。また、むし湯と並んでもっとも古い共同浴場である「熱の湯温泉」は入浴料金がタダだというから素晴らしい。そのほかにも鉄輪温泉街には8つの立ち寄り湯があるので、すべてを制覇してみるのもいいだろう。 街中のいたるところで見かける句碑もユニークだ。これは甲斐さんも所属する地元の地域おこしグループ「鉄輪愛酎会」が行う「鉄輪俳句筒・湯けむり散歩」の活動で建てたもの。鉄輪のアチコチに設置した竹の筒のポストで俳句を募集し、年に一度の審査によって、その年の最優秀賞が選ばれ句碑が建てられるそうだ。すでに鉄輪温泉街には約30カ所に句碑が建てられているという。観光客も巻き込んだ地域おこしが大いに人気を集めている。


〈昭和レトロを生かして商店街を活性化〉

豊後高田市の中心市街地は昭和30年代に国東半島でもっとも栄えた地域だったという。しかし、それ以降は徐々に人口流出がすすむようになり、気付けばシャッター通り化が進行していたという。そこで、01年に「豊後高田 昭和の町」というプロジェクトが発足。豊後高田市の8つの商店街と「昭和ロマン蔵」を中心として、昭和の建物やレトログッズ、当時の食べ物などを満喫できるようなまちづくりを行うことに。「昭和の建築、歴史、商品、商人の再生を軸としてまちづくりがすすめられてきました」とガイドの河野峯子さんは話す。建物に関しては昭和30年代以前の建物を外壁だけリフォームしたものが多かったので、外壁を外して元の姿を出すようにしたという。そうしてできあがった商店の店内や店先にはその店、その商店街の歴史を象徴する道具などがディスプレイされている。そして、それぞれの店が昭和30年代をテーマにした商品やサービスを開発し、積極的に販売している。 もちろん、豊後高田の商人魂も復活、という取り組みも。たとえば「肉のかなおか」の前を通ると、お店の方が「ご試食いかが」と自慢のおからコロッケ(1個50円)をすすめてくれた。その美味しさと安さに驚いて納得して店内に入ると、ついついほかのモノにも目移りして思いがけない買い物をしてしまう。これが昭和の商い、対面販売の真髄を体験できる。 09年には昭和32年式のボンネットバスが導入され話題になった。エアコンも扇風機もついていないレトロバスで街中観光に出掛ければ、バスガイドさんの軽快なトークとともに楽しいひと時をすごすことができる。そして、バスの車窓からは商店主や道行く人たちがバスに向かって笑顔で手を振る姿が見えてくる。地域一丸となって商店街を元気にしたい、そんな想いがヒシヒシと伝わってくる光景である。


◆大分の中小企業

帝国データバンクの調査によれば、大分県の飲食業の総売上高は979億円で、その構成比は全国トップの1・83㌫。また、製造業総売上高は1兆5697 億で、構成比は全国11位の16・81㌫となっている。高度成長期に大分臨海工業地帯が形成され、最近でも電子工業などの立地がすすんでいるため、全国平均に比べ第二次産業の占める割合が高いのが特徴だ。ちなみに、近年は隣接する福岡県宮若市や苅田町に自動車関連企業の集積がすすんだため、主に県北部に自動車産業の立地がすすんでいる。他方、大分から独自の製品やサービスを発信する中小企業もグングン伸びてきている。将来、大分を背負って立ちそうな企業のビジネスを紹介したい。


〈ダンボール素材がマネキンやフィギュアに(株)アキ工作社(大分県国東市)が手がけるのはマネキン、動物のミニチュアフィギュア、ギフト用のパッケージ、アート雑貨など。同社はこれらすべてをダンボールの板材で製作している。レーザー機で切断したダンボールの板材を組み合わせると、マネキンやミニチュアフィギュアができあがるという仕組みだ。形態の設計や加工はすべてコンピューターで処理しているという。副社長の竹下洋子さんはもともニット製品のデザインを手がけていた。展示会を開催するため、おもしろいマネキンを探したものの目当てのものは見つからない。そこで建築家で夫の松岡勇樹さん(現社長)が建築のノウハウでダンボール製のマネキンを自作。これが人気を呼び、マネキン製作会社として同社を設立することになったという。その後、高いデザイン性とエコな点が評価され、アパレル関係や美容室から引っ張りダコに。視点を変え、動物の造形を自分で組み立てられるようにしたミニチュアフィギュアは、国内外の百貨店やミュージアムショップから注文がきているという。 さらに同社ではダンボール板材を使ったディスプレイ用の人台(洋服などの商品を着せるための人型の台)や人型ロボットを開発。そのユニークな造詣で海外のアーティストからも高い評価を得ているという。ダンボールがアートにヘンシン、今後の展開にも要注目の元気企業だ。


・タクシーやトラックの無線に革命を起こす

モバイルクリエイト(株)(大分県大分市)はタクシー会社向けの車両管理システム「新視令」を開発し、業界に風穴を開けたベンチャー企業だ。このシステムと従来のタクシー無線との違いは「GPSを利用して、リアルタイムにすべてのタクシーが走っている場所や待機場所をひと目でわかるようにしたことだ」と社長の村井雄司さんは話す。配車センターですべての状況を把握できるので、乗客にスピーディーに対応できるだけでなく、ドライバーの労働効率を高めることにもつながるという。すでに県内のタクシー会社の7~8割がこのシステムを導入しており、その勢いは九州の枠も超え、全国に広がっている。 さらに、同社は現在、車載端末と3Gデータ通信が一体となったAVM車載端末(Automatic Vehicle Monitoring System)を販売中。「タクシー無線は2016年5月31日までに現行のアナログ通信方式からデジタル方式へ完全移行することが決定しています。しかも、業務無線は利用できるエリアが狭く、データ通信の容量が小さいという欠点があります。そこで、これを機にNTTドコモFOMA網を利用し、デジタル対応のAVM車載端末を開発したのです」と話す。たしかにFOMA網を活用すれば、新たに無線用の基地局を建てたり、免許を取得する必要もない。まさにこの読みは見事に的中、「低コストで無線のデジタル化をはかることができる」ということで、急速にシェアを拡大しているそうだ。今後もタクシー業界や運送業界のニーズを捉えることで、新たな市場を見出していくに違いない。


・金属探知機が鳴らない竹製椅子を開発

最後に紹介するのはサン創ing(大分県日出町)の三浦陽治さんは竹製車椅子を開発し、時の人となっている。もともと三浦さんは建築事務所を経営していたが、一時は経営破綻寸前に陥り、89年に木工家具の製造や内装工事に事業をシフトさせた。「もともとモノづくりが好きだったし、金融機関の方や周囲の支えがあったから何とか業態転換をはかることができました」と振り返る。 そんな三浦さんが竹製車椅子に取り組むようになったのは02年頃のこと。大分県産業科学技術センターと大分県竹工芸・訓練支援センターが商品化した竹製車椅子の技術移転を受けたのだ。以来、三浦さんは竹製車椅子の改良に没頭、座り心地やブレーキの効き具合などを何度も調整し、着実に販売実績を重ねていった。 この三浦さんの取り組みに目を付けたのがJALだった。「保安検査の際に、車椅子が金属探知機に反応しないようにならないか」と模索していた同社は、三浦さんに「非金属の竹製車椅子をつくれないか」と依頼。さっそく、三浦さんは車軸、軸、軸受け、ブレーキ、ベアリングなどを非金属で製作し、金属探知機が鳴らない竹製椅子を完成させた。「完成までには4年近い歳月を要しましたが、満足のいく仕上がりになりました」とにこやかに笑う。すでに羽田空港や大分空港などで使用されており、今後も複数の空港で利用されることになるという。三浦さんは「これからも大分の地域資源である竹を生かした商品開発をすすめていきたい」と意欲を燃やしている。 このように大分には次代を担う中小企業たちが数多く存在し、それらが連携しながらまちおこしなどにもチャレンジしている。そして、その多くが地域資源や顧客ニーズを巧みに吸い上げ、個性的なビジネスを展開している。それはまさに小藩分立、一村一品運動によって培われた大分の気風なのかもしれない。

 

大分出身の偉人と豊かさ

大分県が生んだ偉人を探してみる。筆頭に上がるのが福沢諭吉(1835年ー1901年)だ。豊前中津藩の下級武士の子だったが、今は1万円札の顔になっている。「学問のすすめ」「西洋事情」などベストセラーを連発、慶應義塾を開くなど日本の近代化に大きく貢献した。処世の姿勢が同時代人とはかけ離れてユニークだったが、自分が育った豊前を嫌っていたという。 豊前は文化圏的には現在福岡県に属する北九州市(小倉)と親和性がある。中津は現在の大分県と福岡県との県境を流れる山国川の沖積平野に発達した商業都市だ。中津の名産といえば鱧(ルビ・ハモ)だから、諭吉も中津時代にハモを食したのではないか。諭吉は子どもの時分、冬場でも薄い着物一枚で寝たといっている。豊前はたしかに年を通じて気候温暖で、食物が豊富な地域だ。それもこうした元気人間を生んだ要因ではないだろうか。 大分の元気人間といえば、双葉山定次(1912年ー1968年、大相撲の第36代横綱)だ。大分県宇佐郡天津村の生まれ、本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。双葉山は70勝がならなかった日に師と仰ぐ安岡正篤に「未だ木鶏たりえず」と打電したといわれる。この木鶏の話は白鵬の最多連勝記録63連勝のときにも話題になった。 宇佐平野は駅舘川の扇状地にあり江戸時代から有数の米穀の産地だった。この平野に沿った海が豊前海で、古くから漁港を有してきた。双葉山の体力の源は宇佐の豊かな地魚と米だったのではないか。

ちなみに、来年は双葉山誕生100周年にあたり、大分県宇佐市の是永修治市長は双葉山生誕100年記念事業の一環として「超60連勝碑」を建立することを発表した。60連勝以上を記録した力士は双葉山と63連勝の谷風、白鵬の3人。碑は大分県宇佐市にある双葉山の記念館「双葉の里」の敷地内に建立され、12月3日に除幕式を行うという。白鵬が式典に参列する予定で、12月4日には宇佐神宮上宮で土俵入りを実施する。宇佐での土俵入りは昭和13年の双葉山以来73年ぶりとなる。 川路聖謨(1801年ー1868年)は幕末の旗本で豊後日田の生まれ。川路は幕末きっての開明派の名官吏で、阿部正弘に能力を買われ重用された。今でいえば日本を代表する抜群の有能外交官だ。有能なだけでなく、誠実で情愛深く、ユーモアに富んでいたという。和歌にも造詣が深く、全権としてロシアとの外交交渉にあたり、下田で日露和親条約に調印。その後、幕府の禁裏造営や軍制改革に尽力したが、江戸開城にあたり割腹した後にピストルで自殺、「最後の幕臣」とも呼ばれている。 ところで、川路は幼少の頃に鮎を食したのではないだろうか。日田は昔から「鮎やな」などによる鮎漁が盛んな地域だからだ。市の中心部を流れる三隈川をはじめ、花月川、大山川、玖珠川などが合流するため、日田は水郷日田とも呼ばれる。 日田には「うるか」と呼ばれる鮎の内臓を使った塩辛がある。幕末、開国要求で次々と来日する外国人との折衝に東奔西走した川路は、故郷の「うるか」を昼食のオカズにしていたのでないかと想像してみる。

 

 

最終更新 2012年 3月 22日(木曜日) 17:34
 
慶応義塾高校の中国語教師を経て ふたたび音楽活動をスタート!! 日中の音楽交流を目指す!! 印刷
2011年 11月 17日(木曜日) 17:13


2011111701〈ゲスト〉

瞳みのる(ひとみ・みのる)

〈プロフィール〉

1946年京都生まれ、本名は人見豊(ひとみみのる)。1967~71年まで「瞳みのる」の名で、ザ・タイガースのドラマーとして在籍。グループ解散後、芸能界から完全引退。京都府立山城高等学校定時制卒、慶應大学文学部中国文学科卒、同大学大学院修士課程修了。慶應高等学校で教鞭をとるかたわら、同大学博士課程3年時、北京大学へ2年間留学。中国文学特に唐詩を専攻し、実作も行う。京劇と日舞のコラボレーションのプロデュースや英・米・日・中の歌曲の作詞・作曲・翻訳など行っている

 

「ザ・タイガース」のドラマー「ピー」こと瞳みのる氏。ザ・タイガースの解散の後に芸能界を完全引退。慶応義塾大学で中国語を学び、中国語教師として高校の教壇に立ちつづけてきた。そして、今秋にはザ・タイガースが事実上復活、ふたたび音楽活動に全力を注いでいるという。解散から40年の時を経て、瞳氏の音楽観はどのように変化したのか。そして、中国にどのような思いを抱いているのか。そのあたりを聞いてみた


 「ザ・タイガース」のドラマーから中国語教師に転身


編集長 瞳さんといえば、「ザ・タイガース」のドラマーとして知られています。このほど、ザ・タイガースも事実上復活を遂げ、今はツアーの真ッ最中とのことですが、ザ・タイガースが解散してからはどのような活動を展開していたいのですか。

瞳 とにかく勉強して、解散の翌年には慶応義塾大学に入りました。そして、大学に入ってからもひたすらに勉強しました。音楽活動に取り組んでいたことで、周囲と知識の差がありすぎると痛感したからです。

編集長 大学では中国語を専攻されていたそうですが、どうして中国語を選んだのですか。

瞳 私の祖父は日露戦争、父は日中戦争に従軍していました。私は戦後生まれだったこともあって、正直いってそれぞれの国に対する贖罪の気持ちはあまりありませんでした。しかし、父から当時の日本兵が中国人にしたことを聞いたりするうちに、徐々に中国に申し訳ないことをしたという気持ちを抱くようになりました。ある意味、中国語を選んだのは間接的な謝罪の気持ちがあったからなのかもしれません。

とはいえ、本当に中国語を学ぶことで、大きく成長できたと思っています。人は同じところにとどまっていてはなかなか成長できません。つねに動き、いろんな視点を持つことで成長できるのです。それは語学に関しても同様です。たとえば、英語、日本語、中国語ができると、さらにその違い・共通点が発見できる。私にとって中国語は新しい視点のひとつになったのです。

編集長 北京大学にも留学されていますね。そのときの印象的だったエピソードはありますか。

瞳 留学したのは81年です。当初はギャップに大いに困惑しました。思想面でも文化大革命の影響が残っており、市民同士も相互監視しているような状況だったのです。

編集長 その後、慶応高校に漢文や中国語の教師として勤めたわけです。

瞳 おかげで、多くの生徒たちとふれあいながら、自分自身も成長させてもらいました。また、日中の高校生の交流事業などにも力を入れることができました。本当に有意義な時間だったと思っています。

 

文学的要素を加えながら音楽を見つめ直す

 

編集長 最近は明治時代の音楽に興味をお持ちとのことですが。

瞳 音楽を生業にしている以上、日本における西洋音楽の創世記だった明治時代の音楽を知りたいと思い、資料を探しはじめたんです。

編集長 西洋音楽はどのように日本に入ってきたのですか。

瞳 日本における西洋音楽のルーツは、浦賀に来航したペリーの艦隊音楽だといわれています。それ以来、西洋音楽は着実に日本音楽のなかに取り入れられてきたのですが、メロディーは同じように演奏できても、歌詞をどうするかという問題がありました。そこで、日本風に歌詞を翻訳した西洋音楽が広まり始めたのです。当時は「富国強兵」の時代だったので、そういったニュアンスの歌詞が多いのも特徴です。

編集長 翻訳した内容は原曲とどのように異なるのですか。

瞳 国境を越えた歌のなかに「旅愁」という曲があります。原曲は150~200年前のアメリカの民謡「Dreaming of Home and Mother」です。これを19世紀の終わりに熊本の教師で作詞家の犬童球渓が「旅愁」として訳して日本に伝えました。それを日本に留学していた李叔同がさらに漢訳し、「送別」として中国に広まりました。原曲は母と故郷を愛しむ歌でしたが、日本語訳になると原曲に登場しなかった父親が登場します。そして、中国版になると、友人との別れの歌になっています。このように多くの歌は国によっていろんな表情を見せるようになっていったのです。

編集長 日本における歌詞の翻訳の特徴についてお聞かせください。

瞳 日本の翻訳は非常に優れていると思います。そもそも日本は古くからアレンジするのが得意な民族なのです。鎖国政策下においても、出島において文化・情報の取捨選択を行い、それらを日本流にアレンジしてきたわけですから。たとえば、日明貿易で輸入されたウチワは扇子として日本に取り入れられたものです。そのほかにも、日本は西欧の体育、美術、音楽といったものを取り入れ、独自のアレンジをして義務教育として取り入れたりしてきました。

編集長 歌は時代とともに変わったり、なくなったりするものなのでしょうか。

瞳 多くの歌は使われている言葉や概念が時代遅れになるにつれて、歌われなくなります。あの有名な「蛍の光」についても本当は4番まであるのに、最近では一番しか歌われなくなりました。ちなみに、原曲はスコットランドのものなのですが、日本版の歌詞は原曲とはまったく違うものになっています。中国でも翻訳されているのですが、中国では中久闊を叙すことをテーマにした歌詞になっています。

 

解散40年を経てグローバルなアーティストに

 

編集長 ザ・タイガースが解散して40年が経過しましたが、あらためて音楽に向き合っているような感じですね。

瞳 音楽活動を終えて、一時はドップリと文学にハマッていました。そして、今はその昔に原点に立ち返って音楽を見つめ直しています。とくに歌詞の大切さを感じています。音楽に深みを持たせることができるのは、やはり歌詞ですから。

編集長 最近は日本と中国を往き来しながら、日中の歌詞をそれぞれ翻訳したりしているそうですが、中国のコンテンツについてどのような印象を持っていますか。

瞳 中国には歴史、文化が豊富で、古典だけでも三国志、水滸伝、金瓶梅、西遊記などの魅力的なコンテンツがあります。一時は鎖国のような状態だったにもかかわらず、世界中の華僑・華人が自国にあらゆる文化・情報を持ち込んでいるので、中国には実に多様な文化が存在しています。また、人口が多いだけに才能のある人材も豊富にいるように思います。実際、テレビドラマなんかを見ても、実におもしろい作品がたくさんありますしね。もし中国のエンターテイメントが日本の音楽・芸能などのマーケットになだれ込んできたら、日本の芸能界は間違いなくパニックになってしまうでしょうね。

一方で文化大革命などの影響で、中国では知られていない日本のカルチャーも多数あります。たとえば、僕らやビートルズが人気の絶頂期にあったとき、中国は文化大革命の最中でしたから、中国ではザ・タイガースのことを知っている人はまずいないでしょう。ですから、いつかは中国で大規模なコンサートも開催してみたいと思っています。

編集長 グローバル化がすすむにつれて、瞳さんのように多くの国の文化や言語、情報を取り入れて、独自のアレンジを加えるアーティストが必要とされてくるようになりますね。

瞳 ザ・タイガースの活動は期間限定の活動ですが、その後も個人で活動を展開していきたいと思っています。その一環として、来年の2月から5月くらいの間に全国各地で「老虎再来」という中国文化や音楽をテーマにしたトークライブも開催していく予定です。ちなみに、このタイトルはマネージャーの中井國二氏に、ザ・タイガースの復活にあたっていいキャッチコピーはないかと聞かれて、その場で考え出した言葉です。いっそのこと曲もつくろうというで、同名の曲もつくりました。

―ところで、最近は地域おこしにも興味をお持ちだそうですね。

瞳 「花の首飾り」を作詞した菅原房子さんという方がいらっしゃるのですが、その方の出身地は北海道八雲町というところです。というわけで、八雲町にこの曲を使って、町おこしに取り組んでみたらどうかと提案しているところです。今度の北海道公演には町長さんたちを呼んで、是非とも直接「花の首飾り」を聞いてもらい、どう町おこしにつながるかをイメージしてほしいと思います。

編集長 ザ・タイガースのメンバーが中国や地域おこしにかかわっているなんて本当にビックリですね。これからも精力的に活動をつづけてください。

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〈編集長口評〉

「ザ・タイガース」は団塊世代であれば、誰もが知っているバンドだ。そのドラマーが中国語教師という職業を経て、ふたたび音楽活動を再開したのだからビックリ仰天である。その経験を生かして、日中の懸け橋になるような音楽活動を展開してほしいと思う。

最終更新 2011年 11月 17日(木曜日) 17:34
 
日本の商社も興味津々!! 中国で安全・安心な野菜を栽培する農業法人!! 印刷
2011年 10月 18日(火曜日) 16:50

「中国の食」といえば「毒餃子事件」などのイメージが強く、なかなかマイナスイメージを払拭ことができない。だが、ここにきて日本語の「有機(Yuki)」を社名に冠し、食の安全に取り組む四川省の尚作有機(Sun Yuki)という農事法人が中国で注目を集めているという。さっそく、日系の外食企業も取引を始めたという。同社の農場を訪れ、その事業内容を取材してみた。

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尚作有機の龍淼社長

中国の内陸部・四川省の成都尚作農業科技有限公司(代表・龍淼、資本金1500万元、従業員160名)が「農薬・化学肥料フリー」に取り組み、脚光を浴びている。そこで、成都市中心部から車で1時半、世界遺産の道教の聖地・青城山に程近い同社農場を訪れてみた。見ると、山頂に広がる畑、養鶏場・豚舎には?有機?へのこだわりが。その土にも有機の感触が。化学肥料なしで籾殻を主体とした肥料を使っていることがわかる。

農地の左端には有機山荘と名付けられたレセプション・エリアがある。農家の住宅を改造し、宿泊可能なオシャレな雰囲気の有機レストランになっている。このところ、中国では休日などに農家で食事し、宿泊やレジャーを楽しむ「農家楽」という過ごし方が流行っているが、ここでは「有機作物」を提供しているそうだ。週末には会員たちが家族連れで食事を楽しんでいるという。たまたま視察に来ていた、日系の商社マンに聞いてみると「中国で本当にオーガニック野菜が作れるのかと思っていたが、そのレベルの高さに驚いた」と。そして「これなら日本にも持っていける」と太鼓判を押していた。

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オシャレな雰囲気の有機レストラン

というわけで、採れたばかりの野菜を試食してみた。同社の龍?社長からは「生で召し上がってほしい」ということなので、プチトマト、ニンジン、ダイコン、長ネギ、レタス、ナス、チンゲンサイなどをひとつひとつ味わってみた。いずれも独特の自然の香りと甘みに満ちていた。

どうやらこうした良質な野菜づくりを支えているのが水だそうだ。レセプション・エリア後方には、天然水の浄化システムがあり、その水を農業用水・飲用水として使用しているという。農場内にはその水を使った育苗用のビニールハウスといった施設も設置されているという。

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畑の後方には豚舎があったが、それはなぜか、ニオイはほとんどしない。「微生物を活用し、豚の糞を発酵・分解させ、肥料として活用している」(龍社長)からだそうだ。また、同社で亜微生物を生かした害虫駆除にも力を入れているという。虫対策にはこのほかB5ほどの大きさの黄色いハエ取り紙(黄色に虫が寄ってくる習性を利用)やペットボトルでつくったワナ、太陽光を利用した電撃殺虫機なども活用しているという。

畑で働く人たちがイキイキとしていたのも印象的だ。ただ「ご覧の通り、従業員の年齢層が高いのです。これからは夢を持った若年層をいかに取り込めるかが課題です」と龍社長。また「農業に関心のある若手人材の発掘とかプロの養成、さらに有機農業自体がこの国で黎明期であることから、技術的な習得も急務です」と。このように中国でも有機農業は着実に進化し根付きはじめている。日本の農業も胡坐をかいてはいられないのだ。

 
東日本大震災でも奮闘!! ニッポンの消防団は地域防災の原動力だ!! 印刷
2011年 10月 10日(月曜日) 00:00

東日本大震災では自衛隊の活躍ぶりが大々的に報道されていたが、地域ごとに結成された消防団が陰ながら活躍していたことをご存じだろうか。そこで、今号ではそもそも消防団とはどういった組織で、どんな活動をしているのか、そして東日本大震災ではいかに活躍し、どのような課題が浮上してきたのかをリポートしてみたい。

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消防団員犠牲者253人

 

東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島3県の消防団員の死者・行方不明者が253人に上ることが総務省消防庁のまとめでわかった。3県の死者234人、行方不明者19人、計253人である。県別では岩手県119人、宮城県107人と100人を超える犠牲者を出したことになる。

 

犠牲者のほとんどが地震・大津波発生直後に出動していた公務災害とみられている。阪神・淡路大震災(95年)における消防団員の犠牲者はわずか1名。これと比べると今回は犠牲となった消防団員の数が極端に多く、いかに被災状況が激甚であったのかがわかるのと同時に、地域防災上の人的体制などをあらためて考える必要が出てきそうだ。

 

たとえば、消防団員の公務災害に対しては市町村が掛け金を出している「消防団員等公務災害補償共済基金」の補償がある。たとえば、就学中の子どもがふたりあって死亡した場合は2540万円の一時金と310万円の年金が遺族に支払われる仕組みになっている。ところが、被災した市町村の掛け金による財政負担が重荷になっていることから、国の今年度第2次補正予算で約200億円を特別交付金として支給することが決定したという。また公的補償とは別に、全国の消防団員が加入している財団法人日本消防協会「消防団員福祉共済制度」による補償もある。しかし、想定外の大量の公務死亡の発生で準備金が不足し、代議員会で公務死亡の弔慰金を減額するという異例の決定を行わざるを得なかったという。こうした災害補償の面からも、地域やひいては国家のために犠牲となった人々への配慮を抜本的にあらためる必要もありそうだ。 

 

東日本大震災での消防団の奮闘

 

では、消防団はいかに震災と戦ったのか。消防団は大災害時には避難誘導や広報(大津波警報を伝える)といった業務にあたることになっている。また、海辺の水門を閉じたりするのも消防団の役割だが、「水門を閉じるために、現地に赴いたが、停電の影響により操作に難渋し、津波が押し寄せて危険な目に遭ったり、犠牲になった団員もいた。こうしたリスクを減らしていく必要がある」と話すのは財団法人消防協会の岩田知也常務理事。水門の開閉は日頃から訓練対象となっており、当日も消防団員たちは任務をはたすために水門に駆けつけたという。

 

そのほかにも「海辺に住む家族や親戚、知人が心配で、そこに向かおうとする近隣住民も多数いたが、団員はそれを塞き止め、避難誘導をしつづけた。ギリギリの局面まで海岸付近に留まり、地域住民を守ろうとした」「津波は火災を発生させ、山火事などを併発させる。今回も気仙沼など多くの地域で大規模な火災が発生したが、その際にも消防団は大いに奮闘した」という。

 

もちろん、震災後も消防団は復興のために全力をつくした。自衛隊などと連携して、ガレキ撤去や情報収集に率先して取り組んできた。ちなみに、気仙沼では消防団がバイク隊を結成していたため、被害後の情報収集がスムーズに行われたという。「なかには家族や親戚、家族の行方がわからない団員もいたが、多くの団員が一致団結して復興に取り組んだ」というから、その使命感には敬服の一言である。

 

なお、消防団は先の阪神・淡路大震災でも地域社会を守った実績がある。阪神・淡路大震災では死者の約8割が建物倒壊による圧死などが死因だったが、建物の下敷きとなるなど要救出者の約8割が消防団や町内会などの近隣住民によって救出されたのだ。急な災害の際は周辺住民同士の助け合いが重要になるが、まさに消防団はその核として機能してきたのだ。

 

このように災害と戦いつづける消防団だが、未曾有の大地震・大津波の被害による被害はあまりにも大きい。こうした被害を最小限に抑えるためにも、地域の防災・治安の責務を負っている消防団員の位置づけや安全対策、情報装備、訓練など、検討すべき問題が浮上してきそうだ。たとえば、現場では装備の問題などが浮上したという。「ほとんどの消防団では団員個人に無線装置が与えられておらず、平常時には機能しているケータイは震災時には回線がパンクしてほとんど連絡が取れないような状況になっていた。トランシーバーが有効だったという話もあり、団員が個別に利用する無線機を拡充する必要がある。そのほか、期待されている活動を行うためにも、安全管理の面でも装備の充実をはじめ、消防団の活動環境の整備が急務ではないか」と岩田常務理事は話す。

 

加えて今日の日本は、歴史上経験のないレベルの高齢化社会に突入している。若者の比率は徐々に減少するなかで、文字通りの気力と体力を求められる防災活動を地域において、どのように維持・拡大できるかが重要になってきている。 

 

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団員減少に苦しむ消防団

 

このあたりで、そもそも消防団とはどのような組織なのかを紹介したい。日本の消防活動は市町村に設置される常勤の消防本部と非常勤の消防団が連携して行う仕組みになっている。古くは江戸時代の江戸町火消し、明治時代の消防団とつながる歴史を持ち、戦後1948年に消防組織が公布され、今日の自治体消防の体制が整備された。消防団はすべての市町村に設置され、団数は2275、消防団員数は約88万4000人にもおよんでいる。

 

しかし、その数は平成に入ってから急速に減少している。過去の消防団員数を振り返ると、昭和40年133万人、昭和50年112万人、昭和60年103万人となっている。昭和40年比では3分の2に縮小。直近では平成16年が91万9105人で、平成22年は88万3698名といった感じになっている。日本の末端の防災防御能力は昭和40年と比べて3割も減少しているのだ。さらに団員の高齢化も問題視されており、現在、すでに40歳以上の団員が41・5㌫にまで増えているという。

 

また、消防署は消防本部の組織で、そこに勤務する常勤の消防職員は一般職の地方公務員だが、消防団は別の職業を持ちながらみずからの意思で参加する人々によって構成されている。つまり、消防団員とは本業を持ちながら「自分の地域は自分で守る」という精神にもとづいて消防活動を行っている非常勤特別職の地方公務員なのだ。ちなみに、かつての団員は農業や商店主など自営業者が多かったそうだが、現在は7割が被雇用者で活動上の制限が多いといわれている。しかも、その年間報酬は交付税算定の目安が団員で3万6500円であるのに対し、自治体で実際に支給されている額は平均約2万5000円と大きく乖離があり、待遇面での改善も求められている。

 

ところで、日本には798の消防本部があり、その消防職員数は約15万9000人だが、東日本大震災における死者は20人、行方不明者は7人にとどまった。このことから東北3県では常勤の消防職員の犠牲者の約10倍に相当する消防団員が亡くなっていることがわかる。これは大規模災害の際には消防本部の拠点数、職員数だけでは被災地をカバーできないということだ。風水害なども同様だが、災害発生時の初期対応には、地域事情に詳しい消防団員の知識、判断力、住民誘導などの活動を欠かすことはできない。そうした地域の「住民機動力」を今後どのように養成できるかが、ますますもって重要になってきている。 

 

女性消防団員の活躍に期待

 

減少傾向にある消防団だが、近年では女性消防団員の活躍ぶりが目覚しいという。「そもそも、漁村などでは古くから男手が漁に出てしまうため、女性消防団員の活躍ぶりが目覚ましかった。ところが、最近では都市部でも女性消防団員の活躍ぶりが目立つようになってきた」と岩田常務理事は話す。事実、平成22年10月1日現在で1万9400人(前年同期比886人増・全消防団員の2・2㌫)で、女性消防団員を採用する消防団は1216団(全消防団の53・4㌫)となっている。ちなみに、女性消防団員は広報活動や高齢者宅の防火訪問、応急救護手当の講習、防火普及活動(火災報知機の設置)などにあたっているが、地域によっては火災現場にも出動するそうだ。「消防団の役割が拡大するのにともない、女性消防団員の活躍の場が増えている。また、女性消防団員が多い東京などでは、みずから消火部隊になりたいと願い出る人も増えている。こうした女性の活力を生かしながら、消防団の組織力を高めていきたい」と岩田常務理事は話している。

 

また、女性消防団員だけでなく、最近は学生消防団員の数も増加している。現に平成18年には1234人だった学生消防団員だが、平成22年には1804人まで増加。また、千葉市消防団では全国でも珍しい学生消防団「千葉市消防団第3分団5部(大巌寺)」が誕生。これは防災ボランティア組織として淑徳大学に設置されていた「淑徳大学学生消防隊」が、近隣消防団における団員としての活動期間を経て発足したもの。全国的にこうした動きが活発化していけば、若いエネルギーを消防団に生かすこともできそうだ。

 

平成25年は現在の消防組織が誕生してから65年目の節目となる。また、消防組(現在の消防団の前身)が誕生して120年目の節目でもある。これを機に日本の地域防災力を高めるためにはどうすればいいのか。大いに議論を交わす必要がありそうだ。

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地域性豊かな消防団の取り組み

 
日本消防協会が発行している『新時代に対応した消防団運営』には各地の消防団のユニークな取り組みが紹介されている。たとえば、訓練・災害対応編では福岡県の大野城市消防団による多機能型消防車両を活用した訓練などを紹介。平成22年に日本消防協会から交付された多機能型車両による訓練の模様が掲載されている。それによると、多機能型車両にはエンジンカッターやチェーンソーなどが搭載。それを使って地震で倒壊した家屋から負傷者を救出するという想定の訓練を行ったという。そのほかにも、地域再編・機能別分団(団員)編、地域へのPR活動編、地域住民への防火指導・予防広報編、女性消防団員の活躍編、都道府県の取り組み編、その他にも事例編といった項目の活動事例が盛りだくさん。最近の消防団の活躍ぶりをチェックするにはもってこいの一冊になっている。なお、日本消防協会のホームページ(http://www.nissho.or.jp/)でも事例を閲覧することができる。

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米アップル前CEOスティーブ・ジョブズ死去 印刷
2011年 10月 06日(木曜日) 19:14

米アップルは5日に、スティーブ・ジョブズ前最高経営責任者(CEO)が死去したと発表しました。

アップルは公式サイトで「アップルは、明確なビジョンをもった創造力の天才を失いました。そして、世界は素晴らしい人間を1人失いました」と声明を発表したほか、サイトのトップページにスティーブ・ジョブズの写真と「1955-2011」の文字を掲載し、元CEOの死去を哀悼しました。

最終更新 2011年 10月 06日(木曜日) 19:15
 
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